最年少バトルDJ王者からカルチャーアイコンとなったA-Trak。カニエ・ウェストとの出会いが変えた人生

 

 

人生が変わった瞬間

を経験したことある方はいるだろうか?もしかしたらそのような瞬間は後になってみないと気が付かないかもしれない。しかしそのような瞬間が現れたときに、全力を出せるように常に準備しておくのが重要だと感じる。以前「Fabolousの人生が変わった瞬間」について書いたが、こちらもオススメである。

ターンテーブリズムと世界一のDJを決定する大会「DMC」について。彼らの想いとJapanファイナル

そんな人生が変わった瞬間シリーズであるが、今回はDJカルチャーにとって非常にアイコニックな存在「A-Trak」について紹介したい。彼はローリング・ストーン誌の「EDMの最も重要な人物50人」にも選ばれているが、彼はヒップホップの世界でも大きな功績をあげている。彼はターンテーブリストとして、DMC WORLD CHAMPIONSHIPの最年少優勝記録を2017年まで保持していた人物であり、3大ターンテーブル大会を全て優勝した初のDJである。A-Trakが優勝したときは15歳であったが、現在の最年少記録は12歳の日本人DJ、DJ Renaが記録を更新している。

さらにA-Trakはカニエ・ウェストのDJを務めた後、インディペンデント・レーベル「Fool’s Gold」を立ち上げ、DJだけではなくDanny BrownやKid Cudiなどのラッパーたちを世に送り出した。そんな彼の人生が変わった瞬間をComplexのBlueprintから紹介したい。

 

元々彼はターンテーブリストとして1997年にDMC WORLD CHAMPIONSHIPに出場し、優勝しているわけであるが、当時彼は15歳であった。この若さでワールドチャンピオンシップに出場してしまった彼であるが、当時緊張もしなかったと語る。「本当は世界の舞台だし、緊張すべき場面だったのかも知れないが、俺は単に”スクラッチが好きだ!だからスクラッチするぞ!”という意気込みだった」と語る。ある意味少年時代の悟空のようなメンタリティであるが、その「単に好きだから」という理由でパフォーマンスをできたことが功を奏したのであろう。もし彼が「周りの大人DJに認められるため」にやっていたら、緊張して失敗をしていたかもしれない。

そんな彼はDJとしてのキャリアを積み上げる上で、15歳のときに非常に重要なことを学んだと語る。

 

A-Trak:15歳で優勝して、キャリア初期で最も重要なことを学んだ。それは周りからの懐疑と、ヘイトが絶対についてくるということだ。俺は15歳だったけど、見た目は可愛い10歳みたいな子供だった。多くのDJは、あの舞台に立つために長年練習し続けているんだ。そのなかでぽっと出の15歳がトロフィーを持ち帰ってしまった。だから多くの人はジェラシーを感じてたんだと思う。

でもそのヘイトで落ち込むんじゃなくて、俺はこう思ったんだ。「んじゃもっとバトルを優勝しまくればいいんじゃん。そしたら”若かったから”とか”まぐれ”とか言われなくなるし、自分のスキルが間違いないって見せることができるだろ」ってね。1997年から2000年までバトルしてたんだけど、5回ワールドチャンピオンになった。そしてそこでバトルのキャリアを終えることにしたんだ。

 

これは以前書いた「ジェイデン・スミスが語るアイコニックの意味」という記事にも非常に共通してくる内容である。15歳という年齢で世界一のDJとして世に出た彼は、多くのヘイトを受けたらしい。しかし彼のメンタリティはそこで落ち込むものではなかった。彼は「んじゃもっと勝てばいいんじゃん」という気持ちで活動していくことになる。この精神性が後ほど彼のキャリアに大きな影響を与える。

ターンテーブルのシーンが少しづつ小さくなっているのも受け、彼は次のキャリアを探すようになる。そんな彼が考えたのが、「ラッパーのDJをやる」ということであった。恐らく世界一と言うと、業界内にすぐ繋がりができて、アーティストからバックDJのオファーがたくさんくる、と想像するかも知れないが、実際にはそのようなことはなかった。彼はこのように語る。

 

A-Trak:最初はミッシー・エリオットのDJをやりたいと思ったんだ。自分のベストルーチンが彼女のGet Ur Freak Onをフリップしたやつだったからね。でも当時、そもそもDJを連れているラッパーは少なかったんだ。後はThe ClipseのGrindin’をフリップしたルーチンもあった。実際にその時にLAのホテルのロビーでたまたまPusha-Tに会ったんだ。ちょうど自分のルーチンの映像が入っているカムコーダーを持っていたから、「これはチャンス!」と思って彼に話をかけた。「DJのワールドチャンピオンなんだけど、3分間だけこの映像を見てくれないかな?」と言って見せたら、彼は気に入ってくれたんだ。

「クレイジーだね!いいね!」と言ってくれたけど、実際にそれが何かに繋がることはなかった。そもそもそこで何かを期待しているのが変なんだろうけど、人生に変化はなかった。

 

ワールドチャンピオンだったとしても、次の仕事見つけるのに苦労したのだ。偶然Pusha-Tに会って、自分のルーチンを見せて、褒められた。しかしそれで終わりだったのだ。その後Jackassのクルーと少し仕事したらしいが、1ヶ月も我慢できなかったと語る。「俺はこんなことをやるためにDJをやってるんじゃない」と言いつつ、次のチャンスのために動き続けたのだ。

そしてここで人生が変わった瞬間が訪れる。彼はロンドンにあるレコードショップでDJをやる仕事を受け、ロンドンに旅立った。その時に様々な偶然が積み重なったのだ。

 

A-Trak:俺がロンドンに行ったとき、偶然当時のロッカフェラのチーム全員が宣伝のためにロンドンにいたんだ。当時DEAL REALというレコードショップがあって、俺はそこでターンテーブリズムのデモをやってくれないかと頼まれていたんだ。そしてたまたまジョン・レジェンドも、店内でインストアライブをやる予定だった。ジョン・レジェンドを応援しに、カニエ・ウェストも来ていたんだけど、彼は気づかれないように店の端っこでフッドを被って座っていたんだ。

俺は難易度の高いルーチンをやっていたから、集中していたけど、カニエが俺のルーチンを感じていることに気がついた。俺はカニエプロデュースの「Get By」をフリップして、彼が好反応をしてしていることを確認した。その時に「これが終わったらカニエに話しかけないと」と思ったんだ。

でもなぜか急にMos Defが来店して、店が騒ぎになったんだ。何故彼がロンドンにいたのかは分からないんだけど、彼らはみんなでフリースタイルとかをし始めた。店に人が大勢集まったのもあり、俺はカニエと話す機会を失ったんだ。

 

なんとカニエ・ウェストが好反応を示したにも関わらず、Mos Defの来店により店内がカオスになってしまったのだ。人が大勢集まりすぎたため、せっかくのチャンスを逃してしまった。そもそもジョン・レジェンドと同じインストアをブッキングされ、その店にカニエが来て、Mos Defもくるという確率が非常に低いだろう。そんななか、彼は諦めなかった。

 

A-Trak:彼のアシスタントが、色々繋げてくれる人だったから、彼女に「カニエは絶対俺のセット気に入ってくれたから、話がしたい」って送ったら、翌日に記者会見があるからそのタイミングで話かけるべきだと教えてくれたんだ。俺は翌日空港に行く前に、記者会見に行った。会えるかわからなかったけど、彼が出口から出てくるときに話かけた。そしたら彼はこう言ってくれたんだ。

「昨日のセットまじでクレイジーだったよ!ツアーDJを探してて、ちょうど昨日君のセットを見て、是非やってもらいたいと思ったんだ」

The College Dropoutの直後から、俺はカニエ・ウェストのDJとして活動するようになった。2004年から2007年の暮れまで彼と一緒に活動をしていたし、スタジオでも彼の作業を間近で見ていた。スクラッチをやったり、彼に音楽を共有したり、素晴らしいインスピレーションを受けた。

 

彼は翌日の記者会見で、カニエに話しかけることができ、正式にカニエのDJを務めることになった。これも彼の行動力と、絶対に話すという強い気持ちが紡いだ結果だろう。恐らくカニエ・ウェストの音楽の変化には、A-Trakの影響も非常に大きかったのではないかと感じる。DJとして、そして友人として一緒に活動したが、最終的には彼はカニエの元を去り、自身のレーベル「Fool’s Gold」を立ち上げることになる。彼はカニエに、辞めると伝えたときのことをこう語る。

 

A-Trak:VMAやグラミーの舞台にも立ったし、色々な経験をさせてもらった。でもここでキャリアを捧げるのではなく、自分の志も追いかけないといけないと思ったんだ。ツアー中に彼にその旨を伝えようと想い、彼が泊まっていた部屋に行ったんだ。そしたら彼はもう全部知っていたかのように、「そっか。辞めるのか」って言った。

 

そこから彼はFool’s Goldを立ち上げ、Kid CudiやDanny Brownなどの才能を発掘し、世に出すことになる。彼のレーベルヘッドとしての理念は、Stones ThrowのPeanut Butter Wolfに共通することがある。特にDanny Brownは最初、ライブをやってもあまり盛り上がらなかったらしく、頻繁に「期待に答えられなくてごめんなさい」とA-Trakに謝っていたと語る。しかしA-Trakは「何いってんの?お前は最高だよ!自分がやるべきことをやり続けてれば、徐々に理解する人が増えるから大丈夫!」と彼に自信をつけさせたらしい。

このように彼は最年少バトルDJ王者から、DJカルチャーのアイコンとして成長したのだ。そのきっかけとなったのが、カニエ・ウェストとの出会いであったと言っても過言ではないだろう。偶然の積み重なりを無駄にしないような努力と行動力という「点」が繋がり、彼のキャリアが太い線として形成されたのだ。Run the JewelsのDJが就任した経緯も面白いのでオススメだ。

DJ TrackstarがRun the JewelsのDJに就任した経緯が非常に面白い【ヒップホップドリーム】

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