スヌープドッグの1stアルバム「Doggystyle」G-Funk最高傑作の制作秘話
Writer: 渡邉航光(Kaz Skellington)
G-Funk最高傑作?
1993年11月23日にSnoop Doggy Dogg(スヌープ・ドギー・ドッグ:現スヌープ・ドッグ)の伝説の1stアルバム「Doggystyle」がリリースされた。Dr. Dre(ドクター・ドレー)に発掘されたとされるスヌープ・ドッグであるが、当時のインタビューやドキュメンタリーを見ているとさまざまなエピソードを知ることができるので、その中から面白いものをいくつか紹介しようと思う。カリフォルニアで育ち、G-Funk大好きな筆者としてはこのアルバムは特別なものだ。
スヌープを発掘したのはドレーじゃない?
スヌープはドレーに発掘され、デスロウレコードの一員になったとされている。これは正しいのだが、このエピソードをさらに深く語るとしたら、ドレーと出会う前のスヌープの交友関係を辿る必要があるだろう。スヌープはドレーに合うまで「213」というグループを、Warren G(ウォーレンG)とNate Dogg(ネイト・ドッグ)と組んでいた。1990年に結成されたこの「213」の由来は彼らの出身LBC(ロングビーチ)の市外局番であった。今考えるとスーパーグループに思える213であるが、この中でメンバーの成功に一役かったのはウォーレンGである。
ウォーレンGがいなければ、この三人はヒップホップ界にて成功を収めていないかも知れない。それは何故かと言うと、ウォーレンGはドクター・ドレーの異父兄弟なのである。ストレイト・アウタ・コンプトンではしれっとドレーとスヌープが出会う感じになっているが、本当はウォーレンGが何度もスヌープのラップをドレーに聞かせようとしては失敗していた、というエピソードがある。既にスターだったドレーにとっては、「弟がやっているグループなんてどうせ遊びだろう」と真剣に扱っていなかったらしい。ドレーが開催したパーティでウォーレンGが、「DJをやらせてくれ」と頼みスヌープのラップを流したところ、ドレーが食いついたのである。その後、スヌープと共にネイト・ドッグもドレーの「The Chronic」にフィーチャーされるので、粘ったウォーレンGに感謝である。
エミネムに塗り替えられるまで持っていた記録
このアルバムはもちろん内容も素晴らしいのであるが、もっとも驚きなのは売上枚数であろう。現在まで米国で700万枚以上、全世界で1100万枚以上売れてきたこのアルバムは、リリース当時にとある記録を達成した。それは「デビューアルバムでの初週の売上枚数」と「最も素早く売れたアルバム」の2つの記録である。初週に80万枚以上売れたこのアルバムは、2000年にエミネムの「Marshall Mathers LP」が出てくるまでは世界で最も素早いスピードで売れてアルバムであった。(Marshall Mathers LPは初週に米国だけで176万枚売れているので完敗である)
シュグ・ナイト「Doggystyleのビートを作ったのはドレーじゃない」
「Doggystyle」はドレープロダクションの最高傑作と言うファンも多いなか、デスロウレコードのCEOとして悪名高いSuge Knight(シュグ・ナイト)が2013年に衝撃の発言をした。
Doggystyleのビートはドレーが作ったわけじゃない。Daz Dillinger(ダズ・ディリンジャー)が作って、建前上ドレーが作ったことにしてるだけだ。
これには驚いたファンも多いだろう。しかしその後スヌープがこれがどういうことかを説明している。
ドレーは他の人の手助けがなくてもビートを作れるが、ダズやウォーレンが作ってきたビートももちろんある。ビートを作るのとプロデュースをするのは同じようで全く違うものだ。例えばDoggystyleに収録されている「Ain’t No Fun」はダズとウォーレンがビートを持ってきたが、ドレーがアレンジ/プロデュースして全く違うレベルの良さになったんだ。
The Chronicに続きDoggystyleの制作はどのようにして行われた?
先日ドクター・ドレーの「2001」リリース17周年記念の記事にて「2001」の制作フローを書いた。ではDoggystyleではどのような作業フローだったのだろうか?当時アシスタントをやっていたブルース・ウィリアムスという人物はこう語る。
ドレーはスタジオに一番乗りして、最後に帰るような人だ。彼がビートを作り始め、いい感じにドラムが乗り出すと、皆が部屋に入ってくる。全員が少し酒やスモークを体に入れる。段々トラックの形が出来てくる頃に部屋を見回すと、部屋はラッパーたちでいっぱいなんだ。Daz DillingerやKurupt(クラプト)やスヌープが全員ペンを持ってリリックを書いているんだ。
さらに彼はその後のレコーディングに移るフローもこう語っている。
ドレーが作業をしながら同時進行でリリックを書いているから、ビートが出来上がった頃には既にレコーディングに進む準備が出来ている。彼らのような若く、ハングリーで、ドープな物を常に作りたがっているやつらが集まっている空間では、ワックな音楽が出来るわけがない。
一度は味わってみたい空間だ。全員がクラシックをつくる、という意識をもって取り組む現場の熱量は凄いだろう。
アルバムは完成していなかった。ミックスに48時間だけ
ドレーの良いところでも悪いところでもあると思われているのだが、彼は相当な凝り性らしい。デスロウレコードの後に彼がたちあげたAftermath Entertainmentでも「作業が遅く、アルバムを出せなかった」という理由に22組のアーティストがレーベルを去っているほどだ。それはデスロウ時代にも同じであったらしく、Doggystyleは完成ではなかったとのこと。Dr. Dreが「完成していないので、納得いくまでリリースしない」という判断をしようとしたところ、ディストリビューターやインタースコープ・レコードに「今すぐリリースできる形にしないとリリースを取り消しにする」と言われ、仕方がなく完成させたらしい。そのため、アルバム内のスキット制作やミックスを48時間以内に終わらせる必要があったとのこと。しかし48時間でアルバムのミックスを終わらせ、93年にこのクオリティのアルバムをリリースできるドレーはやはり凄い。
内容やジャケットに対する世間の評価とファンクネス
リリース当時もちろんスヌープのリリシズムやドレーのプロダクションは絶賛された。しかしスヌープが打ち出す残忍なギャングスターな内容や女性軽視にもとれるようなリリック/ジャケットは批判された。ジャケットはThe Game(ザ・ゲーム)の新譜「1992」でもアートワークを担当したJoe Coolであるが、ファンクファンであれば気がつく点がいくつかあるであろう。
アートワークが80年代ファンクっぽいというところだけではなく、実はジャケットの上部の壁から覗いている犬たちの台詞がGeorge Clinton(ジョージ・クリントン)の「Atomic Dog」の歌詞となっているのだ。
Why must I feel like that? Why must I chase the cat? Nothing but a dog in me.
なんでこういう気持ちになるんだ。なんで猫を追いかけないといけないんだ。俺の中の「犬」がそうさせるんだ。
という意味である。スヌープはジョージ・クリントンなどのファンクの先人たちが作ってきた「Pimp(女たらし)」文化を受け継ぎ、男の中にあるワイルドな「犬」を演じているのである。実際にヒップホップ界でファンキーなピンプと言ったらスヌープが第一人者であろう。そのため、セクシストと批判されることもあった。また、2曲目の”G Funk Intro”では実際にジョージ・クリントンがフィーチャリングされている。
2ndシングル”Gin and Juice”の豆知識
1stシングルの”Who am I (What’s My Name)”に関してはP-Funkのかの有名なKnee Deepのベースラインが使用されていたり、先程の”Atomic Dog”や”Give Up The Funk”が使用されているのはあまりにも有名なことである。
それでは”Gin & Juice“はどうだろうか?Gin & Juiceの最初の劇のような部分で出て来るジャージーを着ている子供が実は幼いころのBow Wow(バウ・ワウ)である。
さらにこの曲はG-Funkサウンド定番のP-Funkではなく、Slaveの”Watching You”やGeorge McCraeの”I Get Lifted”などをサンプルしている。
もう少し解説をしていきたいところであるが、これ以上長くなってしまうのはなんなんので、また後日違う記事にて書かせていただく。G-Funkというジャンルを定義付け、ヒップホップの流れを変えてしまった作品を再度聞いてみて欲しい。そしてウェストコーストヒップホップを称え、ウェストコーストの復活を応援しよう。
ライター紹介:渡邉航光(Kaz Skellington):カリフォルニア州OC育ちのラッパー兼Playatunerの代表。umber session tribeのMCとしても活動をしている。
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