【スケートボード】フィラデルフィアの「Love Park」から見るストリートカルチャーの栄枯盛衰

 

ローカルにフォーカス

Playatunerでは今までコンプトンなどのローカルを紹介するツアーの実態などについて書いてきた。ストリートカルチャーを理解するには、その場所に行くのはもちろん、人々によって自然発生した「居場所」というものの変換をリサーチするのが重要だと私は思っている。

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今回は、まだあまり日本ではフォーカスされていなく、自分が面白いと思ったムーブメントと事例がフィラデルフィアにあるので、紹介をしたいと。なお、私自身はここには行ったこともないので、ドキュメンタリーを紹介/解説しつつ、そこから学べることを考察をしたいと思う。

この度紹介をするのはフィラデルフィアにあった「LOVE PARK」という公園だ。スケートボーダーであれば、この公園のフッテージを見たことがあるだろう。今では閉鎖されてしまったこの公園、何があったのだろうか?スケートボーダーたちのメッカとなり、さらに閉鎖していくまでの「栄枯盛衰」を紹介させて頂く。

 

 

スケートメッカへの道


 

「スケートに関してはバルセロナ、パリ、LAのように素晴らしい場所があるが、LOVE PARKほど完璧な場所はなかった」

 

プロスケーターのJosh KalisはLOVE PARKについてこのように語っている。LOVE PARKの正式名称は「John F. Kennedy Plaza」。フィラデルフィアの街づくりを担当をしていたEdmund Bacon氏によって、1932年に発案された。1965年に建設が完了したこの公園だが、この「LOVE」というオブジェを見たことがある人も多いだろう。このLOVEというサインは、新宿や世界中に存在しているが、スケートボーダーにとってはここがメッカである。Edmund氏本人は「自分たちの仕事が世界的に有名になるとは思わなかった」と語っている。

 

元々、スケートボーディングはカリフォルニアにて生まれたスポーツであったので、あまりフィラデルフィアのシーンは注目されていなかった。90年代に入り、そんなLOVE PARKの知名度に大きく貢献したのがDan Wolfeというビデオグラファーであった。彼は毎日LOVE PARKに通い、スケーターたちを撮影し、世に発信し続けたのである。そのなかで活躍していたスケーターの1人が、後のトッププロとなるRicky Oyola(リッキー・オヨラ)であった。彼らはフィラデルフィアのスケート認知度を高めるためにも、毎日LOVE PARKにて撮影をしていたのだ。

LOVE PARKはスムーズな路面だけではなく、ストリートスケーティングに必要なレッジやステアなどが備わっていた。その活動がローカル内で広まったのもあり、当時まだ子供であったBam Margera、Kerry Getz、Josh Kalis、さらにヒップホップとスケートの繋げ役としても多大な影響を及ぼした黒人スケーターStevie Williams(スティービー・ウィリアムズ)などのローカルスケーターたちを惹きつけた。LOVE PARKが彼らレジェンドを育てたと言っても過言ではないだろう。ここに通っていたスケーターたちは、他のスポットに比べると恐ろしいスピードで上達をしていったと語られている。

 

 

LOVE PARKの衰退


 

弊メディアはヒップホップメディアであり、スケートメディアではないのであまりスケーティングに関して深くは入らないが、LOVE PARKの栄枯盛衰から学べることはたくさんある。90年代後半に入り、LOVE PARKはあまりにも有名になり、アメリカ中からスケーターが集まるようになったのだ。「公園が破壊されている」という名目の元、LOVE PARKはスケート禁止になり、大勢の覆面警官が投入されるようになったのだ。子供たちは警官を見る度に逃げるようになり、ここでのスケートは難しくなった。LOVE PARKの衰退から「ストリートカルチャー」の良い面や、学べる点を紹介したいと思う。

 

スケーターたちの観光スポット化

街に誤算があったと言えば、フィラデルフィアのスケートシーンの知名度を把握していなかったことである。市は、この公園が世界中から人が集まる名スポットになっていたことを理解していなかったのである。元々特にアピールポイントがなかったこの街に、「メッカ」として最高の称号を与えたのはスケートボーディングだと語られている。周りのスケートショップなども潤い、わざわざ州外からも通う人たちも大勢いたのである。LOVE PARKにてスケートができなくなった今、フィラデルフィアにおけるそのメリットは完全に無くなり、ショップなどもそれまでの潤いを失ったようだ。

 

人がいることの安全性

スケート禁止になった背景として「スケーターたちが市民に危険を及ぼしている」という理由があった。しかしスケーターたちがいなくなり、LOVE PARKには誰もいなくなったのである。ただの暗い広場になったのもあり、仕事帰りの人たちも公園を通らなくなったのである。誰も使用しない状況が続くと、次は何が起きるのだろうか? スケーターと子供たちで賑わっていた公園は、一気にドラッグディーラーたちの取引所となった。さらにはホームレスが集まるようになり、市民が全く近づかない場所となった。

 

市の対応

大きな問題となったのが市の対応である。実はスケート最大の大会「X Games」がLOVE PARK付近で行われたことを知っているだろうか?具体的にはX Games運営としてはLOVE PARKで開催したかったが、市が市議会所での開催を定めたため、市議会で開催されたのである。そのX Gamesは千人以上の動員を記録し、80億円以上の経済効果をもたらした。そこではお互い、折り合いをつけているように見えたが、市はX Gamesの売上をゲットした直後にスケートボードを完全に禁止したのである。市長が会場にて笑顔で拍手をしていた大会であったが、その次の日には完全禁止になり、挙げ句の果てには公園が全面的に立ち入り禁止になったのだ。その偽善者的な行動を受け、数多くのスケーターたちがフィラデルフィアから出ていく選択を取ったと語られている。

 

LOVE PARKは今でも閉鎖されており、スケートメッカとは程遠い場所になっている。当初この公園を開発したEdmund氏も「街に活気を与えているスケートを禁止するとはなんてことだ!」と怒っている。その後はホームレスやドラッグディーラーの巣窟となり、完全閉鎖まで追い込まれ、誰も近づかない場所となった。スケーターたちがこの公園に「命」を与えたと言っても過言ではないだろう。もちろんスケートのために作られた場所ではないが、ドラッグディーラーが大量にいる状況よりは、20人の子供たちがスケートしている状況のほうが安全ではないだろうか?

確かに確実にスケートをするべきではないスポットはたくさんあり、実際にマナー問題になっているスポットも少なくはない。しかしLOVE PARKのケースに関しては、市はもっと最適な選択をすべきだったと感じる。これはスケートボーディングだけではなく、ストリートカルチャー全般に言えることかも知れない。スケートやヒップホップのような「夢中になれるもの」があるからこそ、子供たちが道を踏み外さないという例も多いだろう。ストリートで生まれるものは人為的であったとしても、やはり自然発生なのである。そこに必要であったから、何も無い状況から発生し、発展していくことによりそれが「文化」となる。さらには世界へ誇れる「強み」にもなる。真の「街づくり」というものは、人々のムーブメントから生まれるのだ。

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