伝説のヒップホップデュオ「OutKast」を読み解く 〜第3章まるで少年漫画のようなデビュー編

 

第1章:Andre 3000生い立ち編はこちら

第2章:Big Boi生い立ち編はこちら

ヒップホップにおけるサウス

サウスのアーティストたちがメインストリームにて大成功を収める前に、その道を作ったヒップホップデュオが「OutKast(アウトキャスト)」であろう。彼らは東と西がヒップホップ界を治めていた90年代に、アトランタ出身の初のメインストリームアーティストとして大活躍をしたのだ。

OutKastの特徴と言ったら従来のヒップホップアーティストとは違い、新しいスタイルに次々と挑戦していく「クリエイティビティ」であろう。言葉の芸術としてのヒップホップをマスターつつも、彼らは全く型にはまっておらず、他のアーティストが挑戦したら叩かれるであろうこともやってのけてしまうのだ。そんなOutKastのクリエイティビティを紐解くため、数回に渡ってOutkastについてのドキュメンタリーを解説/考察していきたい。

 

ライバルからブラザーへ

前回のBig Boi生い立ち編では、Andre 3000とBig Boiが出会うまでのストーリーを書いた。彼らは最初は高校にて頻繁に行われるラップバトルのライバルであったのだ。最初はお互いに対してあまりよくないイメージを抱いていたと語られている。彼らは高校のヒップホップコミュニティ内でのエリートという立ち位置につき、お互いのラップを評価しあっていたらしい。ストリート性が強く、派手なラップスタイルのBig Boiと、内省的な感情や鋭い観察眼からくるラップスタイルのアンドレ。違う性質をもった2人は次第にお互いのラップに惹かれ合うようになる。

高校の最強ラッパー2人でグループを組むことになった彼らは親友となり、常に一緒にラップを書くようになった。2人でイメージやアイディアを出し合い、どのようなグループにするかを語り合ったのである。そのときのデュオにつけられた名前はOutKastではなく「2 Shades Deep」であった。さらにBig BoiとAndreではなく、お互いのラップネームを「Black Dawg」と「Black Wolf」と命名したのである。

 

とにかく誰かの目に止まりたい


当時はインターネットなどはなかった。そのため、誰かの耳に自分たちのラップを届けるには外へ出ていくしかなかったのだ。とにかく音楽に繋がっている人であれば誰でもいいと考えた2人は、近所のガソリンスタンドなどでラップをし続けたのである。いわゆる路上ライブ、路上サイファー的なことを延々とやっていたところ、とある人物が立ち止まった。それはプロデューサー集団「Organized Noize」のRico Wade(リコ・ウェイド)であった。「Organized Noize」は後にTLCやLudacrisなどのプロデュースもするようにもなるが、当時はまだアトランタ内で多少知られているレベルの知名度であった。(Netflixにて2016年に彼らのドキュメンタリーが公開されている)

Organized NoizeはRico Wade、Sleepy Brown、Ray Murrayの3人組であり、彼らは「ダンジョン」と呼ばれる地下室を拠点に音楽制作をしていた。(Sleepy BrownはOutKast曲のサビでよくフィーチャリングされているので知っている方も多いと思う)Organized Noizeは当時のことをこう語っている。

 

俺らは当時「高校生ぐらいの若いラッパー2人を仲間に入れたいな」ということを話していたんだ。そしたらBig Boiとアンドレが俺らのところにやってきて、10分間以上ラップをし続けたんだ。彼らのラップスキルに驚いたよ。聞いた瞬間に「ダンジョン」に招待したね。

 

「ダンジョン」はRicoの母親宅の地下室であり、地面がそのまま土というまさに「洞窟」の名にふさわしい場所であった。彼らはダンジョンに全ての機材を集め音楽制作をしており、そこで活動しているアーティストを「Dungeon Family」と呼んだ。最終的にはGoodie Mob、OutKast、Organized Noize、Killer Mikeなどが所属するヒップホップコレクティブとして成長をした。

その頃からBig Boiとアンドレはダンジョンにて寝泊まりをし、学校にもいかなくなった。(しかしBig Boiがアトランタに滞在できる条件は学校にちゃんといくことであったので、Big Boiは毎日学校に行ってからダンジョンに通うようになる。アンドレはそのまま中退へ。)

その頃に彼らはOutKastに改名することになる。社会からはみ出た自分たちを表す言葉として最適と感じたのである。

 

はじめての挫折


OutKastが特別だと知っていたRicoは、彼らのために様々なライブをブッキングをした。そのなかの一つがLa Faceレコードの社長「L.A. リード」に向けてのライブであった。La Faceと言えば、TLCやアッシャーが所属していたR&Bレコードレーベルであり、Ricoが唯一持っている音楽業界とのコネクションであった。OutKastはL.A.リードのオフィスで、彼へのプレゼンライブを決行したのである。当時彼らのライブを見たL.A.リードはこう語る。

 

彼らのラップは素晴らしかった。韻も凄いし、曲も良い。しかし彼らからは「スター」になる素質が感じられなかった。音楽のスタイルも他のラップグループと同じようで、特出したものでなかった。

 

このような評価を受けたOutKastははじめての挫折を味わったという。特にアンドレは高校を中退していたのもあり、かなり自信を無くしてしまったようだ(案外メンタルが弱い)。Big Boiも自信を無くしたものの立ち上がり、アンドレを勇気づける役割になったのである。「彼が求めているスター性というのはどういう物なのか」ということを考え始めた。

 

猛特訓からの反撃


そこからはOrganized Noizeによる軍隊のような特訓がはじまった。「ラッパー」から「アーティスト」に進化する必要があった2人は、今までやらなかったような特訓をやりはじめた。

そのなかの一つが「ラップをしながらのランニング」であった。ステージにて息切れすることがないように、ステージで自在に動きながら余裕をもってラップできるように、ラップをしながらランニングするというメニューをはじめたのである。さらには今まで以上に厳しいラップバトルをダンジョンにて行うようになった。ワックなリリックをかけば、何度も書き直させられた。

ダンジョン・ファミリーは一丸となってOutKastを育て上げた。持っていたリソースを全てOutKastにふり、ダンジョンの「夢」と「運命」の全てを若い彼らに託したのである。

そしてRicoは再度L.A.リードにライブを見るように頼みこみ、その願いは叶ったのである。彼らは「アーティスト」として成長し、素晴らしいステージを繰り広げたとリードは語っている。

NYのラップでもない、LAのラップでもない、今まで聞いたことのないヒップホップライブであった。

そこで念願のLa Faceレコードと契約に至ったのである!

 

契約から1stシングル(1993年)


契約した後、彼らに一つオファーが入ってきた。それが「La Faceのクリスマスコンピレーション」への参加であった。当時の2人は「クリスマスについてラップなんてできない!」と感じたらしい。しかしそこで制作した曲がプレイヤーたちのクリスマスアンセムになるのであった。

その曲とは「Player’s Ball」。クリスマスに毎年行われる「ピンプや女垂らしによる会合」に出席したことを題材にし、ファンク/ヒップホップならではの、世間のクリスマスとはひと味違うクリスマスソングを披露したのである。たくさんのプレイヤーたちが、毛皮のコートとキャデラックで集まるのを目撃したという内容の「ゲットークリスマスソング」となった。

アトランタでは雪も降らないし、クリスマスと言っても特に普段と何も変わらない。ゲットーではホリデーでも普段通りプレイヤーたちはウィードを吸っているだけだ、という素朴なクリスマスソングはL.A.リードの心を掴み、彼はついにアルバムを制作する決断に至ったのである。

第4弾〜サウスにおけるOutKastの役割〜

第1章:Andre 3000の生い立ち編はこちら

第2章:Big Boiの生い立ち編はこちら

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