Tyler, the Creatorから学ぶ「自己肯定とエゴ」と実行し続ける力。「Flower Boy」について語る。

Writer: Kaz Skellington

 

クリエイティブな若手アーティスト

というフレーズを聞いたときに誰を思い浮かべるだろうか?もしヒップホップという枠で考えるとしたら確実にTyler, the Creator(タイラー・ザ・クリエイター)が思い浮かぶ。彼が2017年にリリースしたアルバムはベスト・オブPlayatuner2017の4位にランクインし、彼の感性やクリエイティブネスには毎度のこと感銘を受ける。

Tyler, the Creatorが「創造」し続けるモチベーションについて語る。「本当に信じていればどんなことだって可能だ」

 

そんな彼のインタビューは毎度のことインスパイアリングな内容であるが、今回のインタビューも非常に面白い。多くのアーティストはアルバムがグラミー賞にノミネートされたとき、プロモーションランとして数多くのインタビューを実行するが、Tylerはこちら一本で全てを完結させている。そんな彼のインタビューから私たちが学べることを紹介したい。

 

死と自己認識

このインタビューではFlower Boyに収録されている曲の多くについて語られているが、特に気になったのが、一曲目「Foreword」の存在である。この曲を聞いて連想されるのが「死」の存在である。しかしその「死」の解釈がマイナスではないと語る。

 

Jerrod:何故この曲が1曲目なの?とあるムードをセットしようとしていたの?

Tyler:特に理由があるわけではないんだけど、この曲で俺の頭のなかの意識がどうなっているかが伝わると思ったんだ。このヴァースを書きながら、色々疑問が浮かんできたのを覚えている。「全てに飽きるまで、いくつの物を購入できるだろうか?」とか「何回バイクでジャンプすれば、もうやらなくなって次のことに意識が移り変わりのだろうか?」とか。なんとなく浮かんできた答えが、次に思い浮かぶ質問に繋がっていた。「充分」というものが存在するのだろうか?とね

Jerrod:これを聞いていて、「存在を問う」とかそのようなものを感じて、ある意味自滅的な「死」を感じたんだけど。例えばサビの「もし俺がいなくなって帰ってこなかったとしても」という点とか

Tyler:そうそう。結構ダークで、その「もし」という質問は最終的には「もし俺が死んだら?」ということに繋がってくる。そのような静観的なトーンをセットして、自分の意識を伝えたかった。でもそれは俺が鬱だったり、自滅的なことを示しているわけではない。多くの人は「自己認識」と「鬱」を混同してしまったりする。だからこういうアルバムを聞いて「おい、このアルバムは鬱についてか?」と聞く人はいるけど、俺は一言も鬱だとは言っていない。俺は「寂しい」からこういうことを考えるけど、今人生で一番楽しんでいる。

 

自分が鬱ではなく、寂しいからこそ自分という存在について考える時間が増えたということであろう。その結果鬱になってしまう人もいると思うが、Tylerの場合は様々なことを自問自答することにより、作品として素晴らしいものをアウトプットすることができた。この違いは非常に重要であろう。さらにその自問自答が、「自己肯定」のためのものなのか?という話題に移行する。

 

Jerrod:もし「死」を意識していて、それが自滅的なものではないとしたら、それは「自分が何かを証明しないといけない」と感じていることから来ているのか?このアルバムからは「何かを証明しないといけない」という意志を感じた。それは自分にたいしてなのか、世間にたいしてなのかはわからないけど。

Tyler:多くの人は、自分が死んだときに起きる話題のために行動を起こす。例えば「俺が死んだら、皆に”彼は良い作品をたくさん残した”と言われる」みたいな感じで。自分の死から逆算して、何かのプロジェクトを動かす。自分でもよくわかってないけど、もし俺はこのアルバムが良くならなかったら、どうにかなっちまってたと思う。

Jerrod:「Cherry Bomb」を終えてから、そう感じてたの?

Tyler:「Cherry Bomb」は、楽器とかも愛する本当に音楽が好きな人以外は嫌っていたからね。ラップアルバムなのに、ロック曲ではじまるし、「Buffalo」では何言っているか聞き取れないし、「ラップ」が欲しいやつらはすぐに離脱したアルバムだった。

 

「死」から逆算して行動を起こすというメンタリティは、恐らく自問自答を繰り返してきたアーティストに多いものであるように感じる。その違いが、過去のTylerの作品と今作の違いであるように思える。その意味でも「アーティストとして成長した」と感じた。

 

エゴと自己肯定

そしてその自問自答がネガティブな結果をもたらすのか、自問自答の結果を擁して「自己肯定」としてポジティブな結果をもたらすのか。その自己肯定とエゴのバランス、そしてその感情を持ちつつも動き続けることを語る。

 

Jerrod:そういう意味でも「Cherry Bomb」に比べて、「Flower Boy」は非常にパーソナルなフィーリングがあった。ダークな内容でもある「Foreword」から、ある意味少しコッキーな「Where This Flower Blooms」に移行し、「自己肯定」をしている感覚はあった?

Tyler:まぁ俺が昔やって、当時は皆「こいつ何やってんの?」って感じだったけど、その2年後には皆がそれをやっていることって結構あったりする。例えばビデオの撮り方とか、アホみたいなポップアップショップとか。俺が発明したわけではないし、自分の手柄なわけでもないけど。でもそういう話題になったとき、誰も俺の名前を出さなかったり、リスペクトしなかったりする。だから俺はこの曲で「誰も俺を認めない。でもそれは俺のエゴかもしれない。そのエゴイスティックなマインドにとらわれて、動けなくなる」ってラップしているんだ。そうやってエゴで固まって動けなくなるやつは多い。

でもそれと同時に「認めないやつらはどうでもいい。ファックだ。」という気持ちもあるんだ。そうやって認めないやつらは無視して、自分がやらないといけないことをやり続ける重要性を伝える。そして黒人の子供たちに、「自分がやりたいと思ったことをやれ」「自分であれ」って伝えるんだ。

Jerrod:それが俺のお気に入りのリリックなんだよね。黒人の子供たちに「周りを気にしないで、”自分”であれ」と言っているところが。それは自分に対して言っているの?それか世間の子供たちに言っているの?

Tyler:もちろん自分にも言っているけど、世間で黒人の子供たちにそういうメッセージを伝えている人があまりにも少ないんだ。俺が12歳のとき、「スノーボードをやってみたい!」って言ったら、「そんなの俺ら黒人がすることじゃない。あれは白人どもがやることだ」って言ってきた奴がいた。俺は「いや…お前がやらないだけだろ…今までの黒人がやってなかったからって、俺がやっちゃいけない理由にならないだろ。勝手に決めつけんな」って思ったね。だから「自分がありたい姿であれ」って、黒人の子供たちに伝えているんだ。

 

自己肯定が、他人にリスペクトを求める形になると、それはエゴなのかもしれない、と考えさせられるラインである。そのようなリスペクトは欲しいが、自分を認めてくれない人たちに認められるために不満をこぼしていたら、動けなくなると語る。これは特にソーシャル時代にアーティストが陥る状態であるように感じる。自分が信じているものを作品と行動で証明し続けるのではなく、目先の承認にとらわれてSNSなどでエゴを満たそうとする活動にハマってしまうと、そのループから抜け出すのが難しくなるのだろう。そんなときは、一旦自分のエゴを自己認識し、周りを気にしないで自分がやるべきことを実行し続けるのが重要だとTylerは語っている。

そして彼はその「自分がやるべきことを実行し続ける」ことは、アーティストだけではなく、黒人の子供たちに対しても伝えないといけないメッセージだと語る。「こうあるべき」という世間に自分を制限されるのか?自分がありたい姿であるために、自分を認め行動に起こすのか?Tylerはこのようなメンタリティにおいてインスパイアしてくれる。これは特に子供にとっても重要なことであるが、誰にでも当てはまることであろう。今後アーティストが活動していったり、自分の理想を追いかけるにおいて、彼の言葉からは学ぶことができる。誰も認めてくれないのであれば、周りのせいにするのではなく、いっその事パイオニアとして実力を見せればいいと思わせてくれる。下記の記事もオススメである。

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