Dr. Dreが1999年のインタビューで当時のラップについて語ったこと。ヒップホップと批判と「ネガティブの裏返し」を考察

 

昔は良かった

というフレーズは恐らくどの時代にも言われる。リアルタイムにその時代が最高だと思って生きていたとしても、批判する人が多かったとしても、どの時代も「過去」になれば良い箇所が見えてくるのかも知れない。また、実際にその時代に幼少期を過ごしたか?という点も大きな要素となってくるだろう。以前はVince Staplesが語った「育った時代と音楽性」という事例をPlayatunerで紹介した。

リアルタイムで聞いて育った音楽がもたらす効果と「自然な音楽」。Vince Staplesのインタビューから考える。

 

今回は上記に共通するDr. Dreの発言を紹介し、物事を批判する上で考えたいことについて深夜の考察をしてみた。Dr. Dreと言えばずっと制作しているか、たまに表に出てきたと思ったらコンプトンの学校に大金を寄付したり、一度お蔵入りになったDetoxが復活するかもと発言したりしているが、基本的にあまりメディアに登場しなくなった人物だ。メディアに登場しなくなっても常に話題に上がる「レジェンド」になったと言っていいだろう。

そんな彼が近年何かを批判することは見なくなったように感じるが、彼の名作「2001」が発売される直前の1999年11月のNewsweekの記事にて非常に興味深いことを言っていたのだ。その一節を紹介したい。この記事ではDreが「Dr. Dre Presents the Aftermath」で落ち着いた作品を作り、売上が以前の1/4になってから、元のDreっぽい内容に戻る上で彼の妻の応援があったというエピソードも紹介されているが、この話は既に知っていたので私の興味レーダーにはそこまで引っかからなかった。その後に紹介されている発言が私の興味を引いた。彼は当時、「現代の音楽」についてこのように語っている。

 

Dre:今のラジオで流れているラップを聞いていると、ラップは単に一つの大きなサンプルを使用した音楽のように思えてくる。これは最初からこのアートをやっていた人たちに対しての侮辱ともなりえる。

 

1999年のラジオヒットのヒップホップというとJay Zの「Girl’s Best Friend」はKC Sunshine Bandをサンプルしていたり、Diddyが「Satisfy You」にてそのままLunizの「I Got 5 on It」と同じClub Nouveauをサンプルしていたりするが、調べればさらに多く出てくるだろう。そして彼は具体的にDiddyの名前を挙げたのだ。

 

Dre:俺はビジネスマンとしてはPuffyをリスペクトする。しかしミュージシャンとしては、彼はアートを傷つけている。クリエイティブになり、この「クラフト」を学ぶ必要があるんだ。誰かが作った曲を「そのまま」使用して世の中に出すな。俺らの多くはリスペクトされるアートを作るため努力をしてきた。

 

実際にこの発言少し意外であった。恐らく現代のヒップホップを批判している人でも、若手であっても、OGであるDiddyのプロダクションについてこのようなことを言ったら少しは炎上するだろう。実際にDiddyが音楽家というより、音楽に置いてもノスタルジアを有効活用するビジネスマンであることは事実であろう。Dreに関しては、「Nuthin But a G Thang」と「The Next Episode」はサンプルをそのまま使用しているが、他の楽曲に関してはサンプルを独自の音楽の一部に上手く組み込んでいる。

この発言を見て興味深いと感じたのは、「今も昔もされている批判ってあまり変わらないんだな」という点である。現在のトラップに関してもラップの内容だけではなく、音楽性という部分でも「同じような曲が量産されている」と言われている。90s後半や2000年代前半はヒップホップがメインストリームにて巨大になった時期とも言われているが、DreはDiddyのプロダクションに関して「アート/クリエイティブを積み上げてきた人たちへの侮辱」と語っていたのだ。

これはDreが「2001」にて完全復活する直前だったので、恐らく自分が「Dr. Dre Presents the Aftermath」で感じた「認められていない状態」に不満を感じていたからこそ、常にトップにいたDiddyのわかりやすいプロダクションに対してのフラストレーションを感じていたのだろう。単純にポジティブな理由での「批判」というものも世の中には存在するが、多くのは場合は多少は「◯◯に比べて認められていない自分」というエゴが含まれていることが多いのかもしれない。

 

ヒップホップと批判とネガティブの裏返し?

Dr. DreもN.W.A.として出てきたときも、「ギャングスタ」なリリックとして批判されていた。難解なラップのパイオニアでもあるファロア・モンチも、当初は「ラップはこんなに難しくあるべきではない」と批判されてきた。しかしこれらは全て一種のスタイルとして定着してきたものだ。かくゆう私もドラッグ使用を促すリリックに関して疑問を感じているという旨の記事を書いたが、それが既に一種のスタイルとして定着しているのも事実である。定着するのは、やはりある程度の理由があるのだろうか?

個人的にはあまりジャンルを言葉でわける人ではないのだが、「ヒップホップ」というものは「エンパワーメントの裏表一体」が大きな要素と感じている。「ヒップホップ」には表面的には違く見えたとしても、結果的にはコミュニティ/文化に属している若者や人々が「救われる」という側面があるというのが私がずっと感じてきたことだ。例えばN.W.A.が「ギャングスタ」な内容であったり、Comptonで起きる「Fuck the Police」と言いたくなる日常をラップしたことにより、多くの人に批判はされたが、実際にその日常を生きて「共感」する人たちにとっては「私たちと同じ声をあげてくれた!」という救いがあっただろう。エミネムの音楽もバイオレント/ヘイトフルで、非常に無謀なリリックで多くの人に批判されてきたが、実際に社会に居場所がないと感じている子供たちや、学校に憤りを感じている若者たちにとっては「発散の居場所」となった。そのように「ネガティブ」と批判されているものも、サイクルのなかで巡り巡って見てみると、ポジティブな影響があったりする。批判に「一理」があるとき、もしかしたらその裏にもポジティブな「一理」があるのかもしれない。(表面だけを真似すると一気に薄まるのもそのためなのではないか)

 

そう考えると今回のDreの批判も完全に一理ある。Diddyのトラックはサンプルをそのまま乗っけているものは多い。しかしそのなかにポジティビティを見出すとしたら、「昔の音楽をリバイバルさせ、金銭以外のサウンド部分でも若者に広めて還元する」という、まさにDr. Dreが「The Next Episode」で起こした効果があるのかもしれない。(それが意図的かどうかはわからないが)このようなことを考えると「確かにクリエイティブとしてはあまりよろしくないが、良い面もあるな」と感じることができる。一旦自分から突発的に出た批判を客観的に見ることができるのではないか?とも感じる。

Dreのシンプルな発言から考えると、深夜ノリで書いた深追いしすぎた考察になってしまったが、自分が批判している事象の「裏側」で救われている人たちはいるのだろうか?と考えるきっかけとなった。もしかしたらその「裏側」が全く見えなくなったとき、大人たちがエミネムのポジティブな面を想像できなかったように、自分のなかで「とある社会との意識的な乖離」が起きているのかも知れない。N.O.R.E.が「過去ばかりを見て、今が見れなくなるのが”年寄り”の意味だ」と語っていることにも共通するだろう。

Dr. Dreがニルヴァーナを聞いてテンションを上げている動画から見る「プロデューサー」という存在

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