スポーツとアートにたいする「教育観」の違い。Chuck Dが歪な教育の環境について語る。

New Kaz Skellington!!

 

 

教育

についてPlayatunerでは何度も書いてきている。自分の好きなことをして生活するアーティストたちから学べる教育のヒントであったり、負のスパイラルから脱却するために自ら地域の教育に投資するアーティストについてであったり、高校のイジメ問題について等身大なラップするアーティストについてであったり、海外と日本で育ったなかで個人的に感じた教育の重要性であったり、「教育」というのは「グラインド&ハッスル」並に大きなテーマである。

教育を行き渡らせるために地域に長期的な投資をするラッパーNipsey Hussle。彼のプロジェクト「Too Big to Fail」は必見

 

以前「Tokenから考える学校のイジメ問題」という記事でも書いたことでもあるが、「子供たちの心の居場所」を作ることも教育の重要な要素である。むしろそのような「居場所」を感じることができない子供たちにとって、ヒップホップやスケートボードが「コミュニティ」となり、居場所を作ったと言っても過言ではないだろう。しかし実際に学校生活などを見ていると、子供たちが何かに夢中になり、自尊心を保つことができるような活動というものはあまり「応援」されていないようにも感じる。(もちろん例外もあり、そのような活動を推奨している学校もあるだろう)

そんななか、既存の学校教育における「風潮」について疑問を投げかけたのが、Public Enemyのフロントマンであり、ヒップホップベテランのChuck Dである。彼はツイッターにもこのように語った。

 

Chuck D:アメリカの学校に野球場/サッカーフィールド/バスケコートがあるのは当たり前だけど、アートやテックのためのマルチメディアのスタジオがないのは歪だ。なぜかというと、社会のなかでスポーツはアートより大きいわけではない。片方は「必須」なこととして教えられ、もう片方は選択肢として軽視されている。

 

このようにChuck Dは教育における「スポーツとアート」のバランスの悪さについて語った。社会における影響や役割として、同等に重要なものにも関わらず、教育の場ではあからさまにスポーツが優遇されていることを指摘した。この感覚に関しては、私を含め多くの人が同意するであろう。彼のこの発言を見て思いついたことをツラツラと書いてみようと思う。

まず私がこの発言について考える上で伝えたいのは、スポーツを目の敵にしているわけではないということだ。実際に私は運動をすることにより、人生がかなり豊かになっている。しかしChuck Dは私が考えていたことを代弁してくれたようにも感じる。

 

スポーツとアート教育の違い?

私は日本でほぼ義務教育を受けていないので、間違えていれば指摘して頂きたい。例えば日本の教育でも、実際にスポーツは学校教育のなかで必須であるが、アートという「表現」で自尊心を保つことは軽視されているようにも感じる。これは恐らく表現というものにたいして「点数/成績」をつけるのが難しいという理由もあるのだろう。また、表現の元となる「基礎」を身に着けるのには、授業の時間ではあまりに足りないというのもあり、「義務教育」には導入しづらい分野であることは理解をしている。そのため、音楽の授業と言ったらリコーダーで元々興味があまりないような楽曲を吹いたり(音を出すまでの第一ハードルが低いため)、音楽における歴史上の人物を暗記する「歴史の授業」になる場合も多い。

そしてスポーツが必須な理由も非常にわかりやすい。「表現」というものは、心の健康という意味では絶大な効果を発揮するが、スポーツはそもそも心だけではなく、体の健康を考えたときにも必要だ。そのため、学校教育におけるスポーツの重要性も理解できる。そこで、「スポーツの楽しさ」を学んだ人たちが社会に出て、ストレスを発散するためにも体を動かす。逆に現在の教育カリキュラムと学校教育では、「音楽の授業で学んだことでストレスを発散しよう!」となる人は圧倒的に少ないだろう。

このようにスポーツとアートの教育カリキュラムの違いによって、それが実践的になるか、興味に繋がりづらいものになるか、「選択肢」のバランスの偏りようにも感じる。「スポーツをやるなら学校でできますよ。でもアートで表現活動をやるなら学校外でやってくださいね」と言った環境の違いがあることをChuck Dは指摘しているのだろう。彼が言うバランスの取れていない「義務教育」というのは、子供たちの「居場所」と「機会」という切り口でもいくつか気になる点が出てくる。

 

居場所と教育。2Pacの例

自分がスポーツに「居場所」を感じることができない人は世の中に多く存在していると思う。そして自分が得意ではないことで「成績」をつけられるが、逆に自分が好き/得意としている活動は認められない。大げさかもしれないが、魚を水から出して、「お前なんで陸歩けないの?」とでも言われている感覚だろうか。そのなかで、学校外で音楽やアートに真剣にのめり込むことができる人は、「居場所」を自分で見つけることができているので、ある意味機会を掴むことに恵まれている。

この話題になったときに思い出すのが2Pacである。彼は有名になり、シュグ・ナイトやエンタメ業界に飲まれるようになって、徐々にレックレスな若者になってしまった。しかし彼の場合は自主的に多くの分野を学んでいたことにより、独自の強い意志で機会を掴み、自己表現として多くの人生にポジティブな影響を与えることができている。若い頃からポエトリーで表現することを勉強し、演技も真剣にやり、音楽の世界にも魅了され、自分がどのような活動をすれば生きていけるかを見つけることができたのだ。社会的には悪環境な状況から、自分が「得意」とする分野を見つけることができている。このように、「のめり込む」力というのは、人生にとってプラスになる。

 

「機会」と「消費者」

Chuck Dが言う「歪さ」は、実際に「心の選択肢」以外にも影響を及ぼしている部分があると感じている。それは「①ドアを見つける機会」と「②消費者としての教育」なのではないか?

の場合はわかりやすいだろう。学校教育における「歪さ」が、そもそも「私ってこういうことに興味があるんだ!」や「私はこういう活動が好きだから、もっと真剣にやってみたい!」と思わせる機会を減らしているようにも思える。キャリアの「選択肢/興味分野」を増やす機会があまりないまま、学校を卒業する人も多いだろう。以前「ラップから考えるイジメ問題」という記事でも同じような旨を書いたが、その人生におけるワクワク感を持つことができなかった若者は、どこで安心をし、何を目指して生きていくのだろうか?人は誰もが違う趣味趣向感覚を持っているので、子供たちが様々なことを体験できる「機会」を与えることが重要なのではないか?と感じる。この①に関してはBig Seanが熱く語ってくれている

Big Sean:俺がまだ幼かった頃は情報源がテレビしかなかった。それもあって俺にはラッパーになるという夢しかなかったんだ。ただもし俺が音楽に関わる様々な職種があることを知っていたら、俺や俺の周りのクルーにはもっと色んな可能性があったかも知れない。デトロイトの失業率が、特に若年層の中で非常に高いということは理解している。俺たちは彼らに必要なキャリアのために、彼らの才能を育てる手助けをしたい。

 

の「消費者としての教育」という点については、私の仮説でしかないのだが、音楽やクリエイティブ業界の衰退には「教育」も絡んでいるように思えるのだ。現在「音楽は当たり前に無料で聞くもの」という価値観を持っている人も多い。特にレコードやCDを買う経験がない若者の間では、インターネットや無料アプリで聞くのが当たり前であり、むしろ彼らにとってはお金を払う意味がわからないだろう。それにたいしてクリエイターたちは、「音楽やクリエイティブを作るのはこんなに大変なんだ!対価としてお金を払え!」と語るが、音楽を表現することについて全く教わってこなかった「音楽は自分が生きる世界と全く違う世界」と思っている子供には「知らんがな」という感じであろう。

もし音楽やクリエイティブにたいする教育が、学校でスポーツ並にされていたとしたら、子供たちのクリエイターたちへの温度感は全く違うものになるだろう。実際に小学校の頃から工場見学や、野球観戦にいくように「このような仕事がある。楽しいけど、かなり大変だしスキルが必要なんだ」と知っていれば、上記の怒るクリエイターたちの理屈は今以上に若い世代に理解されるだろう。Chuck Dが「野球フィールドはあるが、スタジオという環境がない」と書いたのも、「音楽制作を最低限に疑似体験するためのハードルを下げる重要性」を語っているようにも思える。「スポーツ観戦をするためにチケットにお金を払う」というのが当たり前なように、音楽やクリエイティブにもお金という対価が支払われるべき、という意識を作るような体験を、教育現場で提供するべきだと私は考える。

特に消耗品ではない「物」を売る産業に関しては、この「意識サイクル」は重要であり、このサイクルが出来上がれば次の世代も、業界のキャリアを見つけることができる。親や先生に「音楽業界なんて金にならないから辞めなさい」と言われなくもなるだろう。もちろんアーティストの権利を侵害し、無断で無料で音楽を聴くことができるプラットフォームを取り締まることも非常に重要であり、「目の前の解決策」と「ロングスパンで見る教育」をどちらも同時進行で進めていくことが重要だと感じる。

 

「スポーツをやって、暗記メインの勉強を「真面目」にやって、それができなかったら駄目。他の機会も提供しません」という社会において、若者は何を糧に自己表現をしていくのか。その「機会」という「開けることができるドア」を増やすためにも、教育における「バランス」というのは非常に重要である。そしてその「夢中になれること」の機会が与えられなかった子供たちのなかで、「表現したい」という人たちが「ヒップホップ」を作っていったのだろう。記事内ではあまり上手くまとめることができなかっきたが、スヌープ・ドッグが言うように「夢中になれることを与えれば、銃を欲しがる子供は減る」ということなのかもしれない。また、Lil Wayneが「銃を欲しがっている子供たちに、スケートボードを与える」と言っているのも、「大人」としての広義の意味の「教育」の一環なのだろう。Chuck Dは音楽をやっているから音楽を贔屓しているのではなく、「機会の範囲を広げるべき」と言っているのだろう。

Lil Wayneが地元ニューオーリンズの子供たちのためにやっていることが素晴らしい

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